私は、昭和三五年九月十一日、
ここ瀬見温泉で父・好美(三〇才)銀行員、
母千鶴子(二七才)の元に生を受けました。
父は、真室川町の農家に生まれましたが、
縁があり婿入りしたそうです。
高度成長期の昭和三九年(東京オリンピック開催)に、
新館(今の別館)を本館の裏に建築。
それを機に、父は銀行を退職して
「旅館孫六」の主として、専念したそうです。
毎日、たくさんのお客様が来館され、
子供ながらに何となく
落ち着かない感じがしたものです。
しかも、宴会場の下が
子供たちの勉強部屋でした。
日々、仲居さん達が
忙しく動き回る姿を見、
お客様とお酌さんの野球拳で
盛り上がる笑い声を聞きながら
宿題をしていたのが、
とてもなつかしいです。
温泉街の道路は、
まだ舗装されていない凸凹道で
車もまだほとんど走っていない
そんな時代でした。
道路で缶蹴りや野球、
冬はスキーをしたりして
遊んだ記憶があります。
旅館を訪れる主なお客様は
秋田や宮城あるいは
庄内地方面からの湯治客が多く、
そのお子さん方とも
よく遊びました。
夕方になると、
お客様が夕食の準備をし、
おいしそうな匂いが
旅館中に溢れていました。
お客様が調理された料理を、
よくごちそうになったりもしました。
私が高校一年の時に、
一つの転機が訪れました
父がガンの為に
亡くなってしまったのです。
まだ、四六才の若さでした。
姉が大学二年、弟が中学二年の当時、
母はこれからのことを考えて、
途方に暮れたそうです。
今日、自分が
大学生と中学生の子を持つ父となり、
母親の偉大さを
身にしみて感じております
大学を卒業した私は、
友人たちが一般企業に就職するのを尻目に、
故郷に戻り「旅館孫六」を継ぐ覚悟を決めました。
父が亡くなって七年が過ぎ、
母には感謝の気持ちでいっぱいでしたが、
同時に瀬見温泉で一番お客様の少ない
宿になってしまっていました。
施設の老朽化、増改築で増えた階段
お客様をお部屋に案内するたびに
お叱りを受ける日々でした。
「これではいけない。何とかしなければ?」
「いつか旅館を改装して、お客様に喜んでもらいたい!」
そう考える日々でした。
そして、念願叶い、
平成一〇年一〇月にオープンしましたのが
〝 四季の宿まごろく 〟です。
改装して、まもなく十七年になります。
九部屋だけの小じんまりした宿ですが、
お客様に支えられ、今日まで営業してこられました。
これからも、心を込めて
お客様に喜んでもらえる宿を営んでまいりますので、
どうぞよろしくお願い致します。
早いもので社会人として二八年目。
まごろくに嫁ぎ〝旅館業 〟を生業として、
もうすぐ二二年目になります。
華やかな都会に憧れ、
夢を追いかけていた二〇代前半。
学生時代とは全く違う環境、
人間関係の中で
「このままでいいのか?
東京でこのまま生活して頑張っていこうか?」
自問自答している時期に、
主人とのお見合い話があり、
久しぶりに帰省し、
改めて山形の自然の美しさ
シンプルに生きていく事への再確認。
そして、主人の
〝決して立ち止まらず、前へ前へ進んでいく姿勢 〟
に魅かれ、未知の世界に飛び込みました。
同じ山形県生まれと言っても、
最上郡は初めて。
〝旅館〟もOL時代の
社員旅行で行った位・・・。
〝大変 〟という二文字では
表しきれない程、
いろんな事がありました。
逃げ出したくなった事も、
一度や二度ではありません。
しかし、そんな時に
私を支えてくれたのは、
ずっと見守ってくれている両親、
OL時代の先輩の言葉、
子供の笑顔、
そして何より
お客様の励ましの言葉、
笑顔です。
「私達、接客サービス業の人間は、
どんな時も
心と体の調子を
一定レベルに
引き上げておかないとダメ。
人に接する以上はね」
デパート勤務時代です。
「あんまりいがったから、又、来っからな!」
「あなたの笑顔を、又、見に来るよ!
大変な事もあるだろうけど、頑張ってね!」
今まで、何十回、
このありがたいお言葉を聞いたことでしょう。
もちろん厳しいお叱りの言葉もありましたが、
それでも又、
足を運んで下さる、
そんなお客様の為に努力して、
お客様が笑顔で過ごせる宿を、
心許せる従業員さん達と、
作り続けていきたいと思います。
どうぞ宜しくお願い致します。